屋根裏(隔離生活)通信

ロックダウンの解除間もない、寝ぼけまなこのフランス・パリから。

ある老画家の脱出劇 (終)

 大統領がマスクもせずに病院を訪ねたという事実が李さんにとっていかに大きな衝撃だったか、ぼくにはいまだに推し量りかねる。

しかし彼と夫人にとっては、防疫という点においてフランスが信頼に値しないという決定的な証拠となったらしい。
 その日から李さんは寝る間も惜しんで描きかけの絵の仕上げをはじめ、ぼくは帰国に向けた雑務を請け負った。ぼくがアトリエに行く日には途中の売店で「欧州時報」という中国語新聞を買い、李さんは朝のコーヒーを飲みながら第一面の感染者数の国別リストと睨めっこする。なるほど確かにフランスのそれは雪だるま式に増えていき、一週間後の7日には1000人に届こうかというほどになった。けれども依然として街に大きな変化は見られない。同じ日に引っ越し祝いと誕生日会のお誘いが届いてしまうほど、多くの人は怪物に対して恐れを知らぬ態度を見せていた。


「もしもしフロール、こんにちは。突然でほんとに悪いんだけど、きみに来週ポーズを頼んでいた画家の李さんが台湾に帰ることになったんだ。コロナウイルスのことを怖がっていて…」
「ウイルスって、あれは向こうで流行ってるんでしょ?どうしてわざわざ帰っていくのよ」

「どうも台湾はずいぶん安全らしいんだ。中国とはべつの国なんだよ」
いまひとつ腑に落ちないという様子で若いモデルは電話を切った。


「もしもしロディオン、元気にしてますか。じつは李さんが急遽台湾に帰ることになって…そう、例のコロナウイルスのことで…」
「芸術家っていうのは繊細なものだからね」人の好いこの年配のモデルは朗らかな声でからからと笑う。
「あなたも体を大事にね。あなたの齢は知らないけれど、ジャコメッティのモデルだったってことはそれほど若くもないだろうから…」
「心配ご無用。わたしは東洋医学の健康法を実践していて、滅多に病気にかからないからね。それよりわたしが笑ったことはリーには内緒にしといておくれよ」

 ここまでくると、さすがのぼくにも目の前の世界ががだいぶ捻じれて見えてくる。はたしてこの年の離れた友人は本当に愚かな杞の国の人なのだろうか。それよりギリシャ神話に出てくるカッサンドラなのではないか? 神から予言の力を授かると同時に、誰にも予言を信じられない呪いをかけられた可哀想なトロイのお姫様。彼女の必死の制止も聞かず人々は木馬を市内に引き入れ、そしてトロイは滅びてしまう。

 台北行きのちょうどいい飛行機が見つかったとき、李さんははたと手を止めて最後のためらいを見せた。
「よく考えたら、狭い飛行機のなかに12時間もいることになるのか。ひょっとしてそこで感染しちゃうんじゃないかな」
「機内の空気は数分ごとに入れ替わっていて、強力なフィルターもついているそうですよ。ぼくの兄は飛行機のエンジニアだから、そういうことに詳しいんです」
直接兄に確かめたわけではなかったが、今ではぼくも彼を一日でも早くここから逃がしたい気持ちになっていた。李さんはああそうかと表情を明るくして、11日の便を予約するよう台北の夫人に電話を掛けた。奥さんはそこで最後の二つの指令、①機内でトイレに立つときは抗菌手袋を着けること、②桃園空港から自宅までは台湾政府が用意した「免疫タクシー」を利用すること、を言い渡した。

 早朝のひんやりとした空気のなか、ぼくたちは空港へ向かうタクシーに乗りこんだ。李さんの顔には寝不足と心労が覗いているが、それでも気持ちが昂っているのだろう、普段よりずいぶんよく喋る。絵や芸術のことはもちろん、遠いアメリカで病気で亡くなった弟さんのこと、そして半世紀以上前に東京で一介の画学生として暮らしていたころのことなど。ほんとにあのころは楽しかったなあと彼は噛みしめるように言う。
 アルプス山脈の絶景とおなじく、彼にとっては昔懐かしい上野公園の桜吹雪も今年はお預けになってしまうだろう。しかし旅行も芸術の追及も空気を吸って吐けてこそ、命あってこそのものなのだ。それさえあれば、あとで取り返せないものは何もない。

 空港で、李さんはついにマスクを着けた心ある同胞たちをこの地上に見出すことができた。N95でないことが悔やまれるけれど、ぼくは彼のぶんのマスクをキャリーケースから出して手渡す。チェックインを済ませると間もなく、係員が空の車椅子を押してぼくらのもとにやってきた。こういうことは今までなかったから、ぼくと李さんは思わず顔を見合わせた。
「とうとう車椅子に乗っかる自分になっちゃった」
座席にすっぽりと収まって彼ははにかみながら呟き、そのまま係員に押されてたちまちゲートの奥へと消えていった。


 フランス政府が全施設閉鎖を宣言したのはそれからわずか3日後のことだ。そしてさらに2日後には外出制限が布かれ、国境は封鎖され、マスクの使用を避けましょうという文言は政府のガイドラインからこっそりと削除された。この「マスク禁止令」は医療機関むけの在庫の不足をごまかすためのものだったとして、政府はいま大きな批判を浴びている。マスクも抗菌手袋ももう容易には見つからないだろう。李さんのアトリエのなかに閉じ込められた20枚あまりを除いては。けっきょく彼はカッサンドラだったとぼくは今さら思い知っている。

 しかしこの白髪の予言者の物語は悲劇ではない。陥落する街から間一髪で脱出し、怪物の指の隙間を抜けて、小さくも堅牢な壁に守られた楽園のような島国に帰り着いたのだ。いまでは自宅のアトリエで、14日間の隔離期間を旺盛な制作に充てているようだ。
 彼が電話を切ったあと、奥さんがLINEを通じてぼくに送ってくれた写真には、アトリエのなかで描きかけの絵を背にして笑う李さんの姿が映っていた。

まるで10歳も若返ったような晴れやかな笑顔だ。      (おわり)

f:id:Shoshi:20200403204543j:plain