屋根裏(隔離生活)通信

ロックダウンの解除間もない、寝ぼけまなこのフランス・パリから。

花のいのち

 せめて記事の一件くらいは、ぼくのラナンキュラスのために捧げるべきではないかと思う。屋根裏部屋の天窓の下でぼくが育てていた小さな鉢植えの花のことだ。

このブログの最初の記事に書いたとおり、ぼくはこの花をロックダウン決行直前のパリの花屋で買ってきた。外出が厳しく制限されるようになってからというもの、彼女はぼくの隔離生活のほとんど唯一の伴侶で、唯一の生きた明るい色彩で、狭い部屋のなかで行くあてを失った注意と愛情を注いでやれる唯一の保護対象でもあった。大切に大切にしていたのだけれど、ラナンキュラスは枯れてしまった。あっという間の出来事だった。

 花にとって最適な環境を与えられていないのだろうとは、一緒に暮らし始めてすぐに察しがついていた。はじめから咲いていた花に比べて、あとに続く蕾のサイズがずいぶん小さかったためだ。もっといい土や大き目の鉢に引っ越しさせてやりたくとも、園芸店など開いておらず、一番大きなスーパーマーケットにもそういうものは置いていなかった。昼下がりにわずかな陽だまりが通り過ぎてゆく天窓の真下を独占させてやることが、この状況下でぼくが思いつくささやかな改善策だった。それでも彼女は小ぶりでやや不格好ながら新たな花を3つもつけてみせ、葉も茎も青々として水気に満ちていたから、ぼくは別れがこんなに早く訪れようとは思ってもいなかった。この隔離生活をひとりとひと鉢で全うできるものと思い込んでいた。

 長女の花の外側の花弁がしなしなとへたりこんでいるのに気づいたのは、ぼくの呼吸に異変が起きる前日のことだった。いちばん最初に咲いた花がいちばん最初に衰えるのは当たり前のように思われたから、ぼくはそれをあまり気に留めなかったどころか、脱ぎ捨てられたバレリーナのチュチュみたいで愛らしいなんて呑気なことを思っていた。ところが、ぼくの具合がおかしくなって、息苦しい不安な一夜を過ごしたのちに、朝日のなかでふたたび花に目をやったときには、その身に何か不吉なことが起きているのは明白だった。一晩のうちにすべての花が色あせて、花弁の一枚一枚が力を失ったようにうなだれていたのだ。

 その日から、(これはぼくの療養にも必要なことだったが)可能なかぎり天窓を開け放って部屋の換気につとめ、水は体に障らぬよう少しずつその足元に注いでやった。けれどもいつも間の悪いパリの空は晴天をぼくらに恵んではくれず、低く立ち込める灰色の雲の下で、ラナンキュラスは日に日に目に見えて弱っていった。暦が4月を迎えたときにはその葉までもが血の気を失って、素焼きの鉢のふちに力なく垂れさがってしまっていた。

 それでもぼくはあきらめきれず、土が乾くたび水を注ぎ、わずかな日なたの軌道をたどって鉢の位置をずらし続けた。不意に指が花に触れてしまって、乾ききった花弁が紙細工のように崩れ落ちたとき、ぼくはとても悲しかった。しかし何よりぼくの心を締め付けたのは、ついぞ咲かずに朽ちてしまったふたつの末っ子の蕾の姿だった。小指の先よりさらに小さいこの双子の蕾は、それでも咲く日を心待ちにして、咢のなかで懸命に身づくろいをしていたようなのだ。水を吸い上げることをやめ、いまやひと鉢の枯草と化した株のてっぺんで、ミニチュアのような花弁を幾枚か開きかけたまま、彼女らは時の歩みから永遠に切り離されてしまった。

 ぼくが花屋からこの花を買って帰ったとき、ぼくは彼女を封鎖される店舗から救い出したような気持ちでいた。実際のところぼくは花の命を長らえさせたのだろうか? それともそれをより短く、より悲しいものにしただけだったろうか? 心臓のない植物の命はいつ尽きるものなのだろう。その根が土から水を飲むのを止めたときだろうか。それとも気孔の最後のひとつが呼吸を諦めたときだろうか。ぼくのラナンキュラスはその瞬間をいつ迎えたのだろう? 一体ぼくはその瞬間に立ち会うことができたのだろうか…… そんなことをいまでも考えている。

 鉢植えの花はそもそも室内に向かないのだと、花屋の友人が電話口で教えてくれた。短い命を燃やしきるだけの切り花ではないのだから、新鮮な空気と豊富な日当たりが健康維持に不可欠なのだという。せめてベランダがなくちゃだめだね、と言ったところで、彼はぼくの屋根裏部屋の粗末な天窓を思い出したのかもしれない。冗談めかした口調で「ラナンキュラスは身代わりになってくれたんじゃない?」と付け加えた。その助け舟に飛びつくことはあまりに身勝手に思われたけれど、実際それはぼくの心には小さな慰めでもあった。人間はいつでも理由を欲しがる、とりわけ生きることと死ぬことに関しては。意味がないのには耐えられないし、反対に、それらしい理由さえ宛てがわれればその生や死を甘んじて受け入れる。造花のようなやさしい嘘を人間は日々贈りあっている。その膨大な集積を、色とりどりの無限の人工の花畑を、ひとは文化と呼ぶのかもしれない。植物の目にその営みはきっと滑稽に映ることだろう。

 実を結ばずに死んでしまったラナンキュラスのことを、ぼくはいつまでも覚えていようと思う。人間という滑稽な種に生まれついたぼくは、花のいのちに何らかの意味をやはり探してしまうから。

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花を連れ帰った日。

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花弁がチュチュのようだと思って撮った写真。

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呼吸苦の夜が明けたとき。