屋根裏(隔離生活)通信

ロックダウンの解除間もない、寝ぼけまなこのフランス・パリから。

2週間後へのタイムスリップ (下)

 その牧歌的な光景を前にすっかり拍子抜けしていると、男が声を掛けてきた。
「カモっちゅうのは、豆は食べないもんですかねえ」
「いやあどうでしょう、ふだんは水草なんかを食べてるはずですが」
答える声が変にうわずってしまったのは、質問の突拍子の無さのせいではない。路上で見知らぬ人と言葉を交わすこと自体に、ぼくらはもう久しく慣れていないのだ。
「雑食性かもしれないから、明日はソーセージでもあげてみようかな。もちろん安物のやつだけどね」
男は人の好い笑みを浮かべながら言う。ぼくは1メートルの安全距離を保つため四分の一歩あとずさる。
男が言うには、カモたちは一週間ほど前からこの噴水に浮かんでいるらしい。彼らは普段ならセーヌ川で観光船の起こす波に翻弄されながら生活しているもので、こんな街なかの広場に現れることはまずなかった。『人の営みが途絶え、自然が力を取り戻す』ロックダウン以降しきりに発せられている定番のフレーズを、ぼくは今一度思い出す。
「あなた日本人でしょう? なのにマスクをしないのかい」
「いくら日本人でも、売られてもいないマスクは着けられませんよ」
男はそれもそうだと笑った。それじゃあお大事にと言い残し、ぼくは男のもとを離れる。なんだか夢でも見ているみたいだ。こんな呑気なやり取りは2週間前には期待のしようもなかった。

 人々の様子をもうすこし知りたい。いつものとは逆方向にあるスーパーに歩いて行ってみることにした。街の清掃が行われなくなったせいで、路上にはごみが散乱している。かつて漂っていた終末感はこういう細部にまだ燻ってはいるものの、春風によって道のすみへと押しやられ気味といった感じだ。パン屋が一軒営業していて、高校生ぐらいの若者がふたりサンドイッチをかじりながら出てきた。ぼくは思わずその鷲掴みの手を凝視してしまう。彼らもぼくを訝し気に見ながら傍らを通り過ぎて行った。そして視線を道の先に戻せば、やはりそこには人の姿が絶えない。

 タイムスリップものの漫画で、過去の人間が現代に迷い込んで恐れおののく場面がよくある。自動車を鉄のイノシシと呼んで石槍で挑みかかったり、ミニスカートの女の子を見て破廉恥だと騒いだり鼻血を吹いたりする。ぼくは常々ああいう描写を非常にチープだと思っていた。昔の人にだって現代人と同等の想像力と適応力が備わっているわけで、当世の風物にいちいち馬鹿みたいに驚くことを期待するのは傲慢ではないかと。その考えをぼくは改めるべきかもしれない。なにせ2週間という直近の過去からやってきたぼくでさえ、道行く先で見るもの全てにいちいち目を丸くしているのだから。いや実際のところ、たったの2週間だからこそ、この世の中の変貌ぶりは衝撃的に映るのだ。

 警察官は一応街を巡回してはいるようだ。ロードバイクにまたがった4人組のチームとすれ違ったから。その緩慢としたペダルの漕ぎようは、背中にPOLICEと書かれていなければそれと分からないほどだった。ぼくにも他の通行人の誰にも外出証明書の提示を求めることなく、木漏れ日を浴びながら気持ちよさげに遠ざかってゆく。その背中を見送りながら、おだやかな春の午後のただ中で、ぼくは一抹の不安を覚えた。今日から2週間後の未来はどういう世界になっているだろう。新規感染者の数は? 人々の危機意識は? そして、ぼく自身のそれは?

 カフカの『変身』を初めて読んだとき、ぼくは青年グレゴールが自分の身に起きた異常な事態について嘆いたり怒ったりしないことを奇妙に思った。数日のうちに虫の体をさも当たり前のように受け入れ、壁を這い回り腐った野菜を貪り食うことに何の疑問も抱かなくなるのだ。一方で彼の家族はといえば、この虫が長年家計を支えてくれていた長男であることをじきに忘れ、彼を厄介払いすることで新たな明るい門出を迎えることとなる。

「慣れること」と「忘れること」は、不条理のさなかで人間が正気を保ってゆくための一種の免疫機能なのかもしれない。何百人という死者の顔や人となりに毎夜思いを馳せていたのでは心が持たないから、ひとは彼らを自分のうららかな春の日常から切り離す。こうして街に人影が増えていく一方で、夜8時の窓からの拍手はだんだんと痩せ細り、寂しいものとなってゆく。

 ぼくはといえば、つい昨日まで虫をやっていた。人々から忘れられ、その日常から切り離される側の存在だったのだ。2週間後の未来の自分が、あのころの記憶をきちんと引き継いでいてくれたらいいけれど。スーパーマーケットへの入店待ちの1メートル間隔の行列のなかで、ぼくは自信を持ちきれずにいた。  (おわり)

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