屋根裏(隔離生活)通信

ロックダウンの解除間もない、寝ぼけまなこのフランス・パリから。

さくらんぼが実るころ (上)

 住んでいる建物のエントランスで4階の住人とばったり会った。ぼくは正面玄関わきの使用人用出入り口から自分の自転車を引っ張り出してきたところ、彼女は外から帰ってきたところだった。「ようやく見つけた!」彼女の屈託ない声がホールにこだまする。
「コンフィヌマン明けに電話で話したきり音沙汰がないから、どうしてるかと思ってたのよ。私たちが引っ越しちゃうまえに、うちで一杯飲もうって言ったでしょ?」
「いや、ぼくのほうも呼んでもらうのを待ってたんだよ、つつしみ深いものだから…それで、引っ越しの準備は進んでるの?」
「いま新居の様子を見てきたところ。改修工事が2か月も遅れちゃったから、取り戻すのが大変よ」
「もう少しここで暮らせばいいのに」
「退去日がもう決まっているからそうはいかないのよ。それにここの家は手狭だし、夫も早く移りたがってるの」

 コロナピストを自転車で西に向かって駆けながら、ぼくは思わず吹きだしてしまった――「てぜま」だって。ぼくたちが住む建物はパリのど真ん中に鎮座していて、もともと女中部屋だった6階から下には広くて立派な高級アパルトマンしか入っていない。以前ぼくの部屋の配水管が水漏れを起こして、5階の住宅の被害状況を恐る恐る見に降りたとき、天井に大きなシミの付いたキッチンはぼくのアパート全体より二回りも大きかった。床と天井とを共有していても、5階と6階の生活レベルには天と地ほどの違いがある。どうやらそれは「てぜま」という言葉が意味するサイズ感についても同じことみたいだ。

「ところで、これから果物でも収穫に行くの?」

別れ際に彼女がこう尋ねてきたのは、ぼくのポケットからはみ出た軍手やリュックに引っかけた麦わら帽子に目を止めてのことだった。けれども摘むのは果物ではなく雑草だ。日本での休暇中にロックダウンの憂き目に会い、こちらに戻ってこられなくなった庭師の友達の代役として、ぼくはいま顧客の中庭の手入れに向かっている。ときどき手伝うこの健康的な労働をぼくはとても気に入っているから、シャンゼリゼ通りを昇るペダルも今日はすいすいと軽いのだ。


 その中庭は市内随一の高級住宅地のなかにある。立ち入ったのはじつに3か月ぶりだ。春先にふたりで土を入れ変えたおかげか、元気のなかったもみじの木は青々とした新しい葉をいっぱいに茂らせていた。赤茶色にしなびたカメリアの花殻が湿った地面に積もっている。燦燦と注ぐ正午の日を受けて、敷き詰められた玉砂利はまるで乳白色の絨毯のように輝いているが、確かにそれを食い破るように雑草があちこちから顔を出していた。赤い葉を2、3枚付けたひょろひょろの苗もたくさん出ている。よく見ればその葉は小さな掌の形をしていて、どうやらもみじのこぼれ種が芽を出したもののようだった。

 頭上から「こんにちは」と声がして顔を上げると、2階のベランダから依頼主の男性が手を振っていた。実業家だが映画俳優みたいに背が高く洒落ていて、立ち振る舞いも上品だ。
「コンフィヌマンはどうでしたか?」という、誰かと再会したときの常套句が続いて降ってくる。ぼくは頭上の麦わら帽子を背中のほうに落として答える。
「どうにかこうにか耐え抜きました。途中でちょっとしんどい場面もあったけれど」
「しんどい? どうして?」
「なにしろ部屋が10平米しかないもので…」
彼は驚きと同情とが入り混じった複雑な顔をして、「それは大変でしたね」と答えた。

つまらないことを言ってしまった、とぼくは即座に後悔する。こういう話で笑い合えるのはたとえば同じ屋根裏の住人とか、懐寂しい芸術畑の連中とか、似たり寄ったりの階層に住む人どうしでのことなのだ。そうでなければまるで弱者の悲壮な嘆きのように、下手をしたら恨み節のようにさえ相手に聞こえてしまうかもしれない。そうならないよう、ぼくは慌てて取り繕う。
「そうは言っても、あっという間に慣れちゃいましたけどね。2か月間もうちで堂々と怠け放題できたんだから、有り難いことです!」――さいわいにも、彼の表情に優雅さが戻った。
「あなたは日本人だから、きっと真面目に規則を守っていたんでしょうね。外にはまったく出なかったんですか?」
「もちろん買い物には出ましたし、ときどき散歩もしましたよ。1日1時間1km圏内っていう犬の散歩みたいなやつ」
「つまり違反はなし」素直な関心の色が彼の目に浮かんだ。

「それでは、よろしくお願いしますね」と言い残し、彼は窓の奥に姿を消した。ふたたび玉砂利の輝く庭にしゃがみ込んでから、ぼくは麦わら帽子のかたちの自分の影に向かって、さっき出かけて危うくひっこめた台詞をささやきかけてみる。

「違反だなんて、とんでもない。だって見つかったら135ユーロも罰金を取られるんですよ…」

この金額が意味するところも、住む階層によって相当に違うことだろう。ある人にとってそれは馴染みのレストランでのランチ代に過ぎず、またある人には2か月ぶんの食費にもなりうる。思えばけっこうデリケートな額なのだ。

 ひとつ、ふたつ、と草をつまんでは順番に引っこ抜いてゆく。表通りの喧騒から切り離されて、中庭をつつむ時の流れはコンフィヌマンが続いているみたいに緩やかだ。

鉄柵で隔てられた隣の敷地から聞き慣れない言語が聞こえてきたので、背中を伸ばして覗いてみると、東欧風の顔立ちをした坊主頭の青年がふたり塗装道具を水で洗っていた。彼らにとっても隔離生活はさぞ大変だったことだろう。フランス政府の休業補償はきちんと受けられたのだろうか。故郷に残した親のことだって気がかりだろうに、こうして異国に踏み止まって額に汗して働いている。地理的に見れば彼らの祖国はフランスからたった数軒先かもしれないが、その距離を近いと見るか遠いと見るかは彼らが切符を買えるか買えないかにかかっているのだ。

 この世の「格差」というものに、今日は思考を引っ張られてばかりいる。そしてそう仕向けたのがオルセー美術館であることをぼくは知っている。というのも今朝、起き抜けでぼんやりとしたぼくの頭に、館のTwitter公式アカウントがこういうリツイートを放り込んできたのだ。

「1871年の今日(5月28日)はパリ・コミューン終焉の日。労働者の蜂起によって生まれた自治政府からパリを奪還するため、ヴェルサイユ軍が21日より市内への侵攻を開始。1万人から2万人の犠牲者を出した『血塗られた一週間』は28日に幕を閉じた」

ツイートには一幅の油絵の画像が添付されていた。

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マキシミリアン・リュスという画家による『1871年5月、パリの路』という絵で、
現在はオルセー美術館に展示されている。荒れた路上に打ち捨てられた亡骸はパリ市民とコミューン側兵士のものだ。凄惨な場面とは裏腹に、路地に差し込む陽光はいたって穏やかで、まるで今日の日差しを見ながら仕上げられたかのようだ。とりわけ石畳のうえの黄色や青や桃色を孕んだ乱反射のぐあいなど、眼下に広がる玉砂利のそれとまるで地続きのように似通っている。     (つづく)


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