屋根裏(隔離生活)通信

ロックダウンの解除間もない、寝ぼけまなこのフランス・パリから。

さくらんぼが実るころ (下)

 パリ・コミューンという出来事について、ぼくは教科書通りの概要しか知らない。

パリ市民の蜂起によって生まれた世界で初めての労働者政権で、政教分離、教育の無償化、女性の政治参加など現代的な政策を掲げ、徹底的に平等な社会の実現を目指した。しかしほどなく政府軍の反撃を受け、墓地での戦いを最後に鎮圧され、解体。わずか72日間の儚い夢だった。
コミューンの一員でもあった銅工職人が書いた『Le temps des cerises(さくらんぼの実るころ)』という歌が、この一時代のシンボルとして人々の記憶に留められている。


紅の豚 加藤登紀子~さくらんぼの実る頃~


 さくらんぼのなる季節になったら
 小夜鳴き鳥も物まねツグミ
 みんな一緒にお祭り騒ぎ
 お嬢さんがたの気は浮かれ
 恋人たちの心は輝く
 さくらんぼのなる季節になったら
 物まねツグミもはりきり歌う…

……せいぜいこれくらいのことだ。オルセー美術館のツイートがなかったら、今日がその終焉の日にあたるなんてぼくには知る由もなかっただろう。

                  ・


 仕事をはじめて3時間が過ぎた。太陽はやや西に傾いて、中庭にできた日陰の範囲をわずかに押し広げてくれた。腰を上げて見わたしてみれば、除草作業はずいぶん調子よくいっている。リュックサックから水筒を取り出して一休みしていると、外から依頼主の夫人と子どもたちが帰ってきた。

 女の子がぴょんぴょん跳ねながら近づいてきて、「お手伝いしましょーか!」と声をかけてくれる。「ありがとう、やさしいね!でも宿題があるんじゃないの?」とぼく。

「仕事の量が多くてすみません。なにせ2か月も放ったらかしでしたから…」と言いながら、夫人がわずかに口ごもったようにぼくには感じられた。そうだとしたら理由はおそらく、コンフィヌマンの最中パリを離れていた人々への世論があまり優しくないせいだろう。「地方に感染リスクを広げた利己的なパリジャン、とりわけ別荘持ちの富裕層」を批判する人はぼくの周りにもいくらかいた。けれども正直なところ、彼らが本当に義憤に駆られているのか、それとも庭付きの別荘を持たない自分の境遇に怒っているのかはちょっと判断がつきかねた。

冷たい飲み物はいかがですかという親切な申し出を遠慮して、ぼくはふたたび玉砂利の絨毯の修繕作業に取り掛かった。なるべく愉快な考え事をお供にしようと試みる。歌に出てくる物まねツグミってどんなふうに鳴くんだろう? 物まねツグミツグミの鳴き声を真似したら、ただのツグミと区別がつくのかな?

 しかし思考はとんぼ返りして、麦わら帽子のてっぺんに止まる――この世の中の不平等についてだ。ぼくはコンフィヌマンを通じて確かにこの病理を目にした。けれどもそれはパリに留まったとか田舎に逃げたとかいう枝葉の事柄にではなく、もっと社会の根幹に巣食っているように見えたのだ。

 たとえばぼくの住むパリ中心エリアでは、警官によるコントロールがほとんど真面目に行われていなかった。そのため4月の半ばごろには昼日中から外をうろつく人の数がどんどん増え、5月に入るころには広場で集まる若者や子どもを自由に遊ばせている夫婦を当たり前に見かけた。そういう場面にいちいち腹を立てはしなかったが、ちょっとグロテスクな光景だと感じたことは否定できない。

なぜかというに、低所得者の多い郊外の地域では事情がまったく違っていたからだ。警官の姿を路上に見ない日はなく、取り締まりにはときに不要な暴力さえ伴ったことはソーシャルメディアで拡散されたいくつもの動画で知られている。ぼくたちの生活を維持してくれていた人々、つまりスーパーの店員や清掃員、通信販売の配達人などの多くはこういう場所に住んでいて、誰も好んで使いたがらない電車やバスに乗って市内まで通勤していた。これは移動範囲が制限されるまで一度も気が付かなかったことだが、ぼくの近所で見かける買い物客や散歩者、つまり住民のほとんどは白人で、働く人のほとんどはアフリカ系の人だった。ある郊外の貧困地域では前年比の超過死亡率が120%を超えた。ステイホームができない仕事に就いていて、住環境や栄養状態が悪く、医療体制が脆弱だからだ。

 庭付きの別荘を持たなかろうと、屋根裏部屋に暮らしていようと、たぶん誰もが知らず知らずに他の誰かを踏みつけにして生きている。お日さまのもとを自由に歩けるようになってからもずっと、その気味悪い感触はぼくの足裏にくっついてまわっていた。オルセー美術館のツイートは、そこにちくりと刺さった棘だった。

 うちの4階の住人は気さくで社交的だ。この中庭の所有者も、共産主義のポスターにあるような醜悪な資本家とは似ても似つかない。パンデミックのただ中にあって、彼らの主な関心事が新居の工事の遅れや子どもたちの運動不足だったとしても、それは彼らがそれぞれの視座で事態を正しく見たにすぎない。自分の視界の遠近法から逃れることは誰にもできない。それはぼくだって同じことだ。この庭ひとつを例に挙げたって、こうして平気で命を摘み取って顧みない草と、一葉一葉を指で撫でながらアブラムシを取り除いてやる木とがある。すべてのものを平等に扱うなんて、地べたを這いずる人間なんかに遂げられる理想ではないのかもしれない。あの天上のお日さまみたいに、高い高いところから地上のすべてを平らに見下ろさないかぎり……


                   ・

『Le temps des cerises』という、歌のタイトルそのままのレストランがパリの南の端にある。パリ・コミューンの精神を受け継ぎ、上下関係のない協同組合の形で経営されている。ざっくばらんな雰囲気で、壁には左派の政治ポスターがびっしり。連れて行ってくれたのは年の離れたモロッコ人の医者の友人だった。パリで医学生をやっていた70年代、仲間とさかんにここに通っては政治談議を重ねたという。当時は近くに印刷工場があって、仕事上がりの職人たちともしばしばテーブルを囲んだ。

不覚にも彼はのちの人生で大きく成功してしまい、こういう赤一色のお店がすっかり似合わなくなった。ぼくをこの店に連れてきたのはそのためだろうとぼくは思っている。10平米の屋根裏部屋に住まう貧乏絵描きであるぼく、いつまでも途上にあるぼくを、思い出のなかのle temps des cerisesとの橋渡し役に立てたのだ。

「なんか、ぜんぜん革命の歌って感じがしないんだね」奢ってもらったワインのグラスを遠慮もなしに空けながら、ぼくは少し拍子抜けして彼に言った。
「そりゃそうさ」新たにワインを注いでくれながら、老医師はこともなげに同意した。「歌ができたのはパリ・コミューンが始まる何年も前なんだから。若気の至りの恋に浮かれて、『ああ胸が苦しい!』。もともとはどうってことない流行歌だよ」
「そんな歌がよく歴史のなかに残ったもんだ」
「それはあとに続く逸話のおかげだな。コミューンが解体されたあと、『血塗られた週』を生き延びた作者が第四番の歌詞を書き足したんだ。いいか、こういうやつだ」

彼はさっきと同じようにテーブルの上にすこし身を乗り出し、一語一語を区切りながらゆっくりと歌詞を口ずさむ。過去への憧憬の滲む目が、ぼくの姿をじっととらえる。

 さくらんぼのなる季節のことを
 ぼくはいつまでも愛し続けよう
 あのとき開いた心の傷は
 たとえ運命の女神の手でも
 二度と塞げはしないのだろう
 さくらんぼのなる季節のことを
 その思い出を愛し続けよう… 

                  ・


 気がつけば太陽は建物の陰に姿を隠し、中庭はほの青い日影のなかに浸りきっていた。玉砂利の絨毯に開いていた穴はようやくすべて縫い繕われて、その表面にしっとりと水気を帯び始めている。
ぼくが道具を片付けているあいだ、依頼主の一族がひとり、ふたりと中庭に降りてきた。それぞれがぼくにねぎらいの言葉をかけて通り過ぎ、ベンチに腰掛けて夕涼みをはじめる。
10歳ぐらいの男の子がひとり、通り過ぎたかと思ったらすぐにこちらに戻ってきて、「コンフィヌマンはどうでしたか?」と大人みたいな挨拶をしてきた。
「ちょっと退屈だったけど、まあまあだったよ!」ぼくは今度は答えを間違わない。「それで、きみは?退屈しなかった?」
「ううん、楽しかったよ! 家族で南フランスに行ってたんだ」男の子はぱっと顔を輝かせて答え、大人たちのもとに駆け戻っていった。

あの目に映る世界にはまだ、人間どうしを気まずくさせて、住み分けを迫る階層なんかは存在しないのだろう。楽しかったひと春の南仏滞在が人々の怒りと軽蔑を掻き立てるものでもあったことを、いつかは彼の目も捉えることになるのだろうか。できることならそうなるまえに、そんな事実は地上からそっと引き抜いて捨ててしまいたいけれど。


「残り物で失礼ですが、よかったらいかがですか」と、夫人がグラスを持ってきてくれた。少しぬるくなったスパークリングのロゼワインがぷつぷつと泡を浮かべている。群青色に暮れてゆく大気のなかで透けながら、その液体は赤とも青とも桜色とも呼べない色でとろとろと円を描いている。
まるでぼくみたい。心のなかで呟いてから、労働のあとの疲れた体にひと息で流し込んだ。      (おわり)

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労働のシンボル、鎌を手に。

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