屋根裏(隔離生活)通信

ロックダウンの解除間もない、寝ぼけまなこのフランス・パリから。

第二波セーヌを襲う

 これから報告することは深刻な問題だから、本来ならば深刻な調子で語られるべきなのかもしれない。けれども草取りにかこつけて不平等の話などしてしまったあとだから、今度はあまり憂鬱な内容にしたくないという気持ちがある。だからなるべく悲壮な感じが漂わぬようあけすけに書いてしまうつもりなので、もしもちょっぴり乱暴な表現が飛び出してしまっても、どうか今回は目をつぶっていただきたい。

 6月1日の出来事だ。この日は日曜日と重なった祝日の振り替えで、3連休の最終日だった。この週末からついに公園が解放され、そのうえ天気に恵まれたから、ぼくは近所のチュイルリー庭園で久々の野外スケッチをして午後を過ごした。ベンチにも芝生にも人々が寄り集い、日光浴やピクニックができる幸せを噛みしめていた。
 すっかり日が暮れて(といっても夜の10時くらいだ)、公園をあとにして家路に着こうというとき、ふとセーヌ川を眺めて行きたい気持ちになった。コンフィヌマンが明けて以来、河岸はもうどこに行ったらいいか分からない娯楽難民とも呼ぶべき人々で溢れかえっている。それでなんとなく足が遠のいていたのだけれど、連休終わりの夜10時なら落ち着いたひと時が過ごせるかもしれないと期待した。

 思ったとおり、河岸の遊歩道の人影は昼間よりずっと減っていた。酔いの回った笑い声やスピーカーから流れる音楽でいまだに賑やかではあるものの、人ひとり分のスペースは岸の縁に腰を下ろす人々のあいだにたくさんできている。しかし河岸に降り立つや否や、それらの並ぶ背中の向こう側、つまり真っ黒い川の流れのなかに、ぼくはおぞましいものを見出した。巨大な怪物が岸壁に沿ってだらしなく横たわり、波のまにまに体をぶよぶよ伸び縮みさせているのだ。

 その化け物の広い背は、水面まで伸びた水草に引っかかった菓子の袋や使い捨てカップ、ペットボトルやマスクや紙くずなどの雑多なごみでできていた。そのあちこちからビール瓶やワインボトルのトゲを生やしている。全長はゆうに10メートル、幅は3メートルを超えるだろう。こいつは一体いつの間にここに現れたんだ? 少なくとも、コンフィヌマンが明けた初日には影も形もなかったはずだ……

すぐ足元で伏し浮きしているそいつの存在には目もくれず、大学生ぐらいのグループが新しいワインの栓を引き抜こうとしている。そのなかのひとりがタバコの吸い殻を後ろ手にぽいと投げ捨てた。堤防に沿って置かれたゴミ箱は排水管が詰まったみたいにひとつ残らず溢れ出し、街灯の黄ばんだ光を浴びて地面に黒い影を落としている。

 

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「なんちゅうこっちゃ」とぼくは呟いた。
「なんちゅう馬鹿だ、こいつらは」とも、もしかしたら呟いたかもしれない。

 

 セーヌ河岸はもとよりピクニックに人気の場所だから、外出制限が解かれたいま人が戻ってくるのは当たり前のことだ。しかし人々がこんなにも早く、以前と何ひとつ変わらない環境汚染を再開するとはぼくは本当に思っていなかった。だってぼくらがうちに閉じ込められていた2か月間で、このセーヌ川は目を見張るほどに美しい姿を取り戻していたのだから。日中は澄んだ水のなかで小魚が遊んでいるのが見え、夜には静かな流れのうえに星の姿が浮かんでいた。夕暮れ時など、橋のうえを通りかかった人々はみな呆けたように口を半開きにして、見慣れたはずの川の写真を一心不乱に撮っていた。それはもう、アメイジング・グレイスの歌そのもののような光景だった。「わたしはかつて盲目でした。けれども今でははっきり見えます」……

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同じ場所、ほぼ同じアングルから撮った写真。4月30日の午後9時。



 それがひと月も経たないうちに、このざま、すべてが元通り。

遥か対岸に至るまで、ごみは墨汁のような川面から点々と顔を出し、みな一様に月明かりを浴びながら下流を目指してのろのろ進んでゆく。橋の影からハイネケンの空き缶が現れて鈍い光を放つ。レタスのこびりついたハンバーガーの空き箱は方位磁石みたいにくるくると回っている。そして岸のうえでは、笑い転げる男や女の洞窟のように真っ暗な口が開いて閉じてを繰り返している。誰かの踵で蹴り倒されて金切り声をあげるビール瓶。


 このおめでたい連中は、とぼくは考えた。世界に大混乱をもたらしたこのパンデミックの元凶を中国人のゲテモノ食いだと信じ罵る一方で、自分たちのゲテモノ食いには何の問題も見出そうとしない。彼らがセンザンコウを食うのをやめさえすれば、自分たちは未来永劫平和な世界でビッグマックを頬張っていられると思い込んでいる。いつか海洋の生態系がプラスチックで窒息し、あるいは地表の気温が取り返しのつかないほどまで上がってしまったとき、彼らはいったいどういう態度に出るだろう? 「政府が俺たちを騙したんだ!」と同じ泣きごとを言いながら、今度はアマゾンの熱帯雨林やプラスチックを食う新種のバクテリアに向かって感謝の拍手をするつもりだろうか?

 無性に腹が立ってきた。ぼくは地面に片手をついて岸壁の斜面につま先を掛ける。そして水面に手を伸ばし、化け物の背中からペットボトルを1本むしり取って遊歩道へと投げ上げた。そばのグループから「なにやってんだあいつ」という嘲るような声が聞こえたが、知ったことかという気持ちである。続いて拾って陸に放ったデスペラードの空き缶は石畳を打っていい音を響かせた。そうだ、きみたち、この「カラ~ン」を聞きたまえ。うんとたくさんのメッセージを込めた「カラ~ン」だ。ぼくのごみを放りあげる動作からこの音が響くまでの、行間を読め! 読んだら自分が出したごみぐらい、持って帰れ! 4つめのごみを投げ上げたころにはすでに、ぼくはこの月煌々の一夜を化け物退治に費やす覚悟を決めていた。

 とはいえ化け物の体躯は大きい。こうして岸壁に張り付いたままちまちまジャブを繰り出し続けても、与えられるダメージはたかが知れている。ぼくはいちど岸に這い上がり、装備について考えを巡らせる。こういう時に便利な道具はなんといってもタモ網だ。どこかにタモ網、落ちてないかな……
しかしそう都合よく夜道にタモ網が見つかるほど大都会パリは甘くない。なければそれに代わる武器を、自分の手で作り出さなければ。

 アイ・ウィル・ビー・バック。これで終わりと思うなよ。無気力にたゆたう怪物の背をもういちど睨みつけてから、ぼくは屋根裏部屋へと踵を返した。午前零時。夜風が涼しい。だが心には熱い闘志がめらめらと燃えたぎっている。   (つづく)

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