屋根裏(隔離生活)通信

ロックダウンの解除間もない、寝ぼけまなこのフランス・パリから。

夢のあと

  置き引き泥棒が、遊歩道の壁ぎわの暗がりに立って、川岸の縁に放置されたぼくの買い物袋を観察している。背中を向けて立つぼくが彼の存在を感知していることに、向こうはおそらく気付いていない。
(この記事は直近のふたつの記事の続きです。よかったら、こちらからどうぞ→第二波セーヌを襲う - 屋根裏(隔離生活)通信
もちろん彼が「あっしが置き引き泥棒でござい」とみずから名乗ったわけではない。けれども彼がぼくの背後をはじめに通り過ぎていったとき、その挙動はあまりに露骨に置き引き泥棒のそれだった。「あっしは善良な散歩者でやんすよ。鼻歌交じりに足取り軽く、前を見据えて歩くばかりで、あんたの荷物なんかにゃ見向きもしやせんよ……ちらり」。案の定彼はすぐに歩道を引き返してきて、遠目からぼくの荷物にかかわる価値とリスクを見積っている。
ぼくは彼にはまるで気づかないふりをして、眼下に浮かぶ怪物の巨体に手製の槍を振り下ろし続けた。その大げさな無防備ぶりに勇気づけられてか、置き引き泥棒はやがて音もなく袋へと近づいてきたが、中身をのぞき込める距離にまで来たとたんぴたりと足を止め、そのまま綺麗なターンを決めて歩き去っていった。ざるとハンガーとタコ糸とごみ袋はタダでも欲しくないらしい。なんとも失礼な話である。


 時計の針は3時半を過ぎていた。月は対岸の家々の屋根に触れんばかりに高度を落とし、その明かりにはほのかな赤みが差し始めている。シテ島の太鼓はいつしか鳴り止み、河岸に集う人影もひとつまたひとつと消えてゆく。そばにいた学生グループもついに話の種が尽きたのか、仲間と寄っかかりあいながら千鳥足で坂道を登っていった。かくして河岸の遊歩道には、遠方になおいくらかの人影と、ひとつ残らず溢れかえったくずかご、石畳のうえを駆け回るどぶねずみ、そして岸べりに揚げられたごみとぼくだけが残された。槍が水面をかき回す音が急に大きくなったように感じる。どこかで何かに驚いた鴨がグワッと声を上げ、続いてかすかな羽音の響きが川の流れを遡ってゆく。

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 怪物の背に露出していた大型のごみはほとんど取り除けたが、一本だけ、槍がどうしても届かないコーラのペットボトルがあった。怪物の川上側の先端に妙に目立って突き出していて、ひょっとしてあのボトルこそ怪物の急所なのではないかという気がしてくる。あれさえ引き抜けたら、化け物の体を形成するごみはたちまち泡と消えてしまい、あとには水草と小魚の戯れるひと月前のセーヌが残る。これほど取るのが難しいのにはきっとそういう理由があるのだ。そうだ、かごからざるをぶら下げてリーチを延長してみよう。ぼくは石畳のうえに槍を寝かせて、その先にタコ糸を結びにかかる。

 そこへ、誰かが歩道を踏む足音が近づいてきた。後ろめたいところのない足取り、昼の世界の人間の足取りだ。顔を上げると目が合ったので、互いにこんばんはと挨拶をする。同い年ぐらいの男だった。
「そこで何してるんですか?」男は率直に尋ねる。
「あんまりごみが目立つから、ちょっと掃除をしてたんですよ」ぼくも今度は普通に答える。


「へえ、ごみを、ひとりで、夜中に……」

 

ぼくの回答は彼の心の琴線に触れたらしく、彼の口から秘められた思いが堰を切ったように流れ出した。

 

「いやあ、きみは立派なやつだな。おれは本当に尊敬するよ。おれはコンフィヌマンが終わってから世の中にひどく失望してたんだ。だって4月の初めごろまで、テレビでもネットでも皆さんざん『Le monde d'après(これからの世界)』の話をしてただろ? 
『Covid-19は自然界からの最終警告だ!』『環境破壊を食い止めよう!』『持続可能な社会を目指そう!』『自分の生活から見直そう!』『そうだ、ごみを減らそう!』……そうだったよな、覚えてるよな? 
あいつら一体どこに行ったんだ? 一体何が変わったっていうんだ? 目の前の危機が過ぎ去ったとたん、何もかも忘れちゃうんだから無責任なもんだよ」

 彼の言葉は一語一句まで、日暮れ時にぼくが抱いた憤りの補足説明みたいだった。彼の早口に懸命に相槌を挟みながら、ぼくは心にふたつの矛盾した感情が芽生えるのを感じる。ひとつは、同じ記憶を留めている者が見つかったという安心感。そしてもうひとつは、ほんのちょっとの興冷めの感情だ。

環境だとか責任だとか、どうして彼はぼくのごっこ遊びに水を差すような理屈を今更こねるんだ。確かに最初こそそういう趣旨だったけれど、いまではとっくに違うお話になっているんだぞ、遅れているなあ。これは月下の化け物退治で、ウイルスの件とも関係ないんだ。登場するならもうすこし、世界観というやつを考慮してくれないと……

「結局みんな口ばっかりで、自分の尻を動かそうとはしないんだ。だからほんとにきみは偉いよ、たったひとりでさ……。 どこの出身だい? へえ、日本! おれはキタノの映画のファンなんだ。お勧め作品があったら教えてくれよ。Facebookはやってる? なら友達申請させてくれ。

またゴミ拾いをするときには声をかけてくれよな、おれも一緒にやるからさ。岸で飲んでる彼女を迎えに行くところだから、今夜は付き合えないけれど。じゃ、また!」

シモンという名の好青年はガールフレンドの催促の電話に答えながら、遊歩道を足早に遠ざかっていった。その後姿を見送りながら、ぼくは彼の正体を看破した。彼はおそらく昼の世界から夜の世界へと送り込まれた先兵だ。それが証拠に彼は東からやってきたし、道理にかなったことを言ってはひとの夢想に水を差す。彼がやってきた方角を見れば、すでに空の端が微かに白みはじめている。腕時計に視線を落とすと、その短針は数字の4ににじり寄っている……まもなく朝の大攻勢がやってきて、夜のすべてが駆逐されてしまう。

 ぼくは槍の先に吊るしたざるを慌てて川に放り込み、怪物の急所を捉えようとあがいた。しかしざるは水面にとんちんかんな軌道を描くばかりで、狙った突起にかすりもしない。まるで突然与えられたとんちんかんな役割をざる自身が拒否しているみたいだ。夜の魔力が弱まったせいで、ざるさえ正気に返りつつある。夜明けの気配に洗われながら狂気の塗装が落ちてゆく。騎士の籠手はゴム手袋へ、退魔の槍は果物かごと壊れたパラソルへ、武装は弱体化の一途をたどる。目の前の強大なモンスターは気の滅入るような生活ごみの集積へ、その唯一の弱点は川面に五万と浮かんだプラスチックごみのひとつへと、みんな一緒に堕落してしまう……

 残念ながら時間切れだ。ぼくは退却を決意した。

 

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 持ってきたごみ袋を広げて、掬い上げた多種多様なごみを詰め込んでゆく。ビール瓶7本、アルミ缶3つ、ペットボトル9本、マスク3枚、テニスボール1こ、菓子の袋、使い捨てカップ、紙くずそしてビニールくず。袋を3枚も持参したのに、ぎゅっと詰めたらひとつの袋にきれいに収まってしまった。4時間におよぶ格闘の成果が片手で運べるサイズだなんて、さすがにがっかりしてしまう。流れを覗けばそこには相変わらず、ごみを纏った水草の群生がぶよぶよと波に揺れている。その先端にペットボトルを1本縦に突き立てていて、結局のところ見た目のうえでは初めとほとんど変わらない。

 かくして決闘はぼくの敗北に終わった。汚水のしたたる袋を背負い、果物かごとざるのくっついた間抜けなパラソルを肩にかけ、もと来た坂道をとぼとぼと上る。『凱旋』という言葉があるけれど、その対義語はなんて言うんだろう。もしも存在しないとしたら人の歴史はあまりに薄情だ。いまのぼくみたいに肩を落として戦場から帰還した人々のことを、言葉を使って言い表そうともしなかったということじゃあないか。

 坂を上り切ったところでふと西の空を見ると、河岸からは屋根に隠れて見えなくなっていた月がまだ少し顔を出していた。あんなに空の低いところまで逃げ落ちてはいても、高いところにあったときより一回りも大きく、赤みを増して金貨のような輝きを放っている。

橋の欄干に肘をついて、月がふたたび屋根のうしろに隠れてしまうのを見届けてから、ごみ袋を背負いなおして家路に着いた。肩から下げた買い物袋に重みのない金貨が1枚落とし込まれたような気がした。未遂におわった化け物退治に、慈悲深い夜が投げ与えてくれたお情け程度の報酬だ。        (おわり)

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