突然のロックダウンを皮切りに、フランスが新型コロナウイルスとの「戦争」に突入してから丸一年が経った。いまだ収束の兆しは見られず、今日ではパリを含む19の県で三度目のロックダウンが施行されている。今回のそれは外出に関する規制が大幅に緩和されており、日中であれば自宅から半径10kmの範囲内を自由に出歩くことが許されている。だから街なかに人の往来は絶えないけれど、かといって行くあてはそう多くもない。レストランも喫茶店もスポーツジムも映画館も美術館も劇場もコンサートホールも、いまだ扉を閉ざしているからだ。
とりわけ劇場やコンサートホールなどの文化施設は、去年から不遇そのものだ。文化大国であるはずのフランスの政府から直々に「Non essentiel(重要ではないもの)」の烙印を押され、さらにはクリスマス商戦を前に商業施設が営業再開を認められたときでさえ、文化施設の解禁は見送られた。舞台のうえで生きる俳優やダンサー、ミュージシャンたちは見捨てられたような気持ちでこの一年を生きてきたことだろう。その失望はいま怒りの声に変わって、第三波の到来に塞ぎこんだ国土のあちこちで間欠泉のように吹きあがっている。
『Danser encore(また踊ろう)』という歌が、ここ数週間フランス各地の路上で歌われているという。多くの場合フラッシュモブの手法を取っていて、広場や駅の構内で突然演奏が始められ、曲が終われば演者はぱっと散ってゆく。6人を超える人数の集会は野外であっても禁止されているからだ。仕掛け人がミュージシャンやオペラ歌手、ダンサーや軽業師など舞台芸術のプロばかりだから、演奏も演出も質が高くて見ごたえがある。
YouTubeには沢山の関連動画が投稿されているけれど、ここではぼくがいちばん芸術点が高いと感じたものを紹介したい。フランス南西部の港町ラ・ロシェルで十日前に撮影されたものだ。
youtu.be
僕らはまだ踊り続けたい
想いが身体を抱くのを見たい
この曲を書いたのはKaddour Hadadiというシンガーソングライターだ。アルジェリア系移民の二世として貧困地区で育ったという背景もあり、社会の不平等にあえぐマイノリティの立場から曲を書くことで知られている。彼が十年以上前に発表した『On lâche rien(何も手放さない)』は未だに左派のデモで使われる定番曲だ。
今回の曲でも、コロナ禍をめぐる政府の対応を彼は露骨に批判している。テレビで喋る「王様」はもちろんマクロン大統領。その独裁にあえぐ「僕ら」はダンサーや俳優、ミュージシャンらであると同時に、笑ったり考えたり感動を分かち合うための場――文化という名の舞台を奪われた全てのフランス国民でもある。
マスクの不着用や大人数での集会など、彼らのパフォーマンスに違反が伴っているのは明らかだ。しかしどの動画を見ても、評価やコメントはポジティブなもので溢れている。「やっぱりフランスはこうでなくちゃ!」「聴きながら泣いちゃったよ。新しい国歌に選定しよう!」「外で歌って踊るのが罪だなんて、この国はいつから独裁国家になったんだ?」「自由万歳!ブラボー、アーティストたち!」「マスクで隠されていない笑顔はなんて美しいんだろう」などなど。
一度目のロックダウンのとき、パリのアパートのバルコニーから音楽を流して道行く人々を躍らせたDJがいた。使われていたのは80年代の歌謡曲で、やはり「わたしを自由に躍らせて」という内容のものだったけれど、当時は躍らせたDJも踊った人々も世間にさんざん叩かれた。にもかかわらず今回の「踊ろうぜ」がこれだけ大きな支持を得ているのは、いったいどういう訳だろう。一年を経て人々の忍耐が限界に達していることの表れのようにも思えるし、あのDJには悪いけれど、単に芸術的完成度の差という気もする。是と非をめぐる理屈を超えて、人の魂を直接揺さぶる。これこそ芸術が持つ魔力の恐ろしさであり、尊さでもある。